Quantcast
Channel: あ~どうしたものか
Viewing all articles
Browse latest Browse all 19012

本日の音楽——Requiem

$
0
0
2011年6月10日のブログ記事でYouTubeリンク切れにつきアップデートしました。

Giovanni Francesco Anerio - Requiem - Kyrie (Missa pro defunctis)






悼みつつ、できることを模索しつつ。
合掌。
富良野まりえ (@franoma)

Giovanni Francesco Anerio youtu.be/9oyfDJQ301U ⁦‪@YouTube‬⁩より
と…

付記(2011/06/28):特別に ↓ 会員でなくても全ページ読めるそうです。
自分の目で被災地を見て、何かを感じてほしい

↓ 前々から南三陸町の写真を掲載しているブログ
http://usmletoer.exblog.jp/

↓ 南三陸町を支援するブログ。支援物資の集積場所などの情報。
日本の復興を応援しよう!
http://www.tonozuka.net/SHIEN/TOP.html


仙台311後
http://www.brainhackers.org/archives/2011/07/4465
> 最初は何とも無かったのだけど、そう
> いう中に立っていると段々重苦しさが
> 酷くなって来て、とても苦しい気持ち
> になった。周りに何も無いからという
> より、何かあったはずだから感じる何
> かは、気持ちと身体に直接やって来る。
> そんな中にいると、単純に自然って
> 怖いなとやっぱり思う。ヒトは自然が
> 怖いから科学してきた。少なくとも僕
> はそう思う。そして、どんなに科学し
> たって克服出来ないものがあるってい
> うのは、やっぱりいつもどこかに覚え
> ておかないといけないんだ。一方で、
> こういう話をすると、自然が怖いから
> 科学するっていうのに同意してくれな
> い科学者が多いのには結構驚く。きっ
> とそういうヒトは、きっと自分も自然
> の一部だって言う実感がないまま生き
> ているんだと思う。僕は、それは明ら
> かに間違いだと思うんだ。


http://usmletoer.exblog.jp/15002185/
にご紹介のあった本
吉村昭(著)『三陸海岸大津波』(再々刊 2004年、文春文庫)
中学生のとき、一度、読んだ本です。再々刊の文庫を買って再読しました。「《吉村記録文学》の傑作」と帯にあるだけの貴重な内容です。ついでに、
吉村昭(著)『関東大震災』(再々刊 2004年、文春文庫)
pp. 344-345.
>  年が明け、大正十三年を迎えた。
>  その年の四月二日に一回、翌々日に
> はさらに強い地震があった。
>  その度に、地震学教室の今村明恒の
> もとに新聞記者が訪れた。が、かれは
> 東京に近い将来大地震の襲う恐れは全
> くないと告げ、それ以外のことについ
> ては人心の混乱を恐れて口をつぐんで
> いた。
>  かれは、その二度の地震が東京の直
> 下を震源地としたものであることを知
> っていた。かれの知識によると、東京
> の直下または数里以内を震源地とする
> 有感地震は、十年に数回しか起こって
> はいなかった。それが、わずか三日間
> のうちに二回も起ったということは異
> 常であった。安政二年の大地震は、江
> 戸の真下を震源地として起った。それ
> によって、東京の真下の地震エネルギ
> ーは消耗されているはずなのに、地震
> が続発したことは不気味であった。
>  かれは、新たな大地震が起るのでは
> ないかと危惧した。そして、激しい不
> 安を感じながら日を過したが、地震計
> の針は動かず、ようやくかれの不安も
> 薄らいだ。
>  しかし、五月二十一日午前十時三十
> 二分に、またも地震計の針が大きく揺
> れた。その地震は、二秒ほど地鳴りが
> つづくと、急に上下動がやってきて、
> 三秒ほどすると横揺れが数回繰り返さ
> れ震動がやんだ。
>  かれの観測によると、その地震も東
> 京の真下が震源地であった。
>  かれは、うつろな目を窓外に向けた。
> かれの得ている学問的知識は、過去の
> 地震を調査し研究した結果得ることの
> できた統計が主となっている。地震の
> 予知も統計から推定したもので、それ
> は科学の初歩的な段階にある。
>  無力感がかれの胸にしみ入ってきた。

あの当時より地震学も大きく進んだとはいえ、予知はできていません。対策を立てるには、想定する必要があるわけですが、想定は外れることがあります。それでも、ただ怖がっているのではなく、できる限り研究して、困難に備えようとするしかありません。

付記(2011/12/23):参考になる記事を今さらながら知ったのでリンクしておく。
http://kipuka.blog70.fc2.com/blog-entry-65.html

> 「学者」「行政」「マスメディア」
> 「住民」が,同じゴールを目指して協
> 力し合うことは,現実には起こらない。
> それは幻想である。四者は,実はそれ
> ぞれ異なるゴールを目指している。四
> 者が互いに相手を敵とみなして憎しみ
> あうのは論外だが,四者の間には健全
> な緊張関係が存在してしかるべきであ
> る。密室における馴れ合いで災害に対
> 応するのではなく,その災害にかかわ
> るすべての情報を四者全員が迅速に公
> 開して共有し,互いに競争しあう関係
> が望ましい。そのときインターネット
> が情報交換のための有力なツールとな
> ろう。


付記(2011/08/27):
http://blog.livedoor.jp/amenohimoharenohimo/archives/65760061.html
(1)福島の放射能汚染は深刻だ。目をそらして、どうする? 地下水系を汚染から守るために早急に地下プールを作る必要がある。
(2)「今回の東日本大震災での大津波は想定外とされてきましたが。東京電力は昨日、福島第一原発で10メートルを超える津波が押し寄せる可能性があると、いう試算結果を3年も前にまとめていたことを明らかにしました。えーそして、あくまでも試算結果だから信用しがたい、ということで具体的な対策は何も取ってこなかったということ」「原子力安全基盤機構は、もう何年も前に、津波の高さごとに、えー、ブラックアウトになる確率までも計算して出していた、という事実もあります。それらをまあ自分たちにとっては都合が悪いということで、出来るならば無視してしまいたいと思いながらここまで来てしまった」

http://news.ameba.jp/hl/20110825-192/
「10メートル超の大津波」想定するも対策とらず 東電や保安院に「大変遺憾」と枝野長官

こうしたリスクがあるのに「出来るならば無視してしまいたいと思いながらここまで来てしまった」のは、↓ PTSD で解ける問題なのかも知れない。 PTSD の「場当たり」。その根柢には「無力感」がある。
震災ショックで浮上したキーワード【場当たり的】はPTSD解離用語
http://ameblo.jp/raingreen/entry-10877572723.html

PTSDは流行ってないけど【その場しのぎ症候群】は流行しているらしい
http://ameblo.jp/raingreen/entry-10996376130.html
「その場しのぎ症候群」とはまた、変な名称をつけましたね。「その場しのぎ」は必要です。火事場の馬鹿力なしに、そこで焼死してはオシマイなので、ともかく生き延びないと。しかし、「火事は火事場の馬鹿力で凌げばよいので 、防火システムは不要」というわけはありませんね。

http://ameblo.jp/kyupin/entry-10214552453.htmlの R.E.M. “Why Not Smile?” の歌詞から
“I feel like a cartoon brick wall”
↑ 根柢にある「無力感」
これにヒトは屈することなく、どこまでも科学するしかない(“Daysleeper”を経て“Walk Unafraid”)と私は思う。 ↓ それが “cōnscientia”


藤井先生がブログに
> 自然が怖いから科学するっていうのに
> 同意してくれない科学者が多いのには
> 結構驚く。
とお書きのように、怖いのだけれども、できる限り研究して、困難に備えようとするしかないのだと私個人は考えております。そう考えると、やはり、
「私に今、できることはなんだろう」
http://ameblo.jp/aya-quae/entry-10892257403.html
で孫引きさせていただいたように、大隅先生がブログのエントリ
http://nosumi.exblog.jp/13526851/#13526851_1
で紹介されている
http://cgi2.nhk.or.jp/nw9/pickup/?date=110503_1
> 高村:私たちが今できるのは
> 逃れられない(その)現実(を)に
> 耐えて見つめ続けるか
>
> あるいは(もう)目をそらして
> なかったことにするか
> 逃げるかなんですね
>
> 私は逃げてはならないと思います
>
> 現実に(その)福島で(もう)生まれ
> 育った土地
> 仕事も家も子どもも(何もかもこう)
> ある土地を追われて
> 現実にきょう明日(に)も逃げていか
> なくてはならない方たちがおられる
>
> それを(その)なかったことにして
>
> (まあ)時間がたてば元どおりになる
> という(その)根拠(は)
> どこにもない
>
> 大越:これだけのことがあっても
> 今のこの豊かな電力供給を
> 原発が担っている以上は
> 私たちはそこに乗っかって生きていく
> という道を
> 何気に(こう)無意識に選択している
> 人たちも実は多いですよね。
>
> 高村:これまでと同じように生きると
> いう選択肢はないんだというふうに思
> っています。
>
> 私自身は今すぐには無理ですけれども
> 十年とかいうスパンで考えたときには
> 日本は(原発から)脱却をして
> 次の(その)エネルギー社会へ進んで
> 行くべきだと思っています。
>
> 原子力発電という技術を否定するもの
> ではありませんけれども
>
> 日本は地震国なので無理だと
> そういう理由です。

つまり、事は、日本の技術力を信じるかどうか?——ではないのだと私個人も考えます。浜岡原発を「安全を確立した上で再開」というのも画餅でしょう。安全は確立できないでしょう。なぜならば——武田 斉紀氏の記事:
原発事故が100%起こらないなら、今日から私も推進派
安全な会社は「人は悪気がなくても事故を起こす」と考える

http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20110602/220368/?P=1
にもあるように、

「原発事故が100%起こらない」ようにすることは、「リスクをゼロにするのは不可能なのでそれは求められない」(© 伊勢田哲治「『誇り高い技術者になろう』に関する『科学・社会・人間』誌上の討論」)ことであり、思想信条にも立場にも寄らず、原理的に誰も保証できませんから。

それを、「安全だと言え!!」と強要してきたのは誰なのか? 私の知るかぎり、中曽根元首相は、明らかに札束で研究者の顔をひっぱたいて無理強いしました。でも、他の人は、どうなのでしょう、そこまで確信犯なのでしょうか? KY の私個人は感じないけれど、多くの人が感じるという「同調圧力」のせいで、「安全神話」と呼ばれるものが結果的に形成されたのではないでしょうか。もし、そうだとすれば、犯人探しをして、誰かを断罪しても意味がありません。

吉村昭(著)『関東大震災』(再々刊 2004年、文春文庫)p. 344.
>  年が明け、大正十三年を迎えた。
>  その年の四月二日に一回、翌々日に
> はさらに強い地震があった。
>  その度に、地震学教室の今村明恒の
> もとに新聞記者が訪れた。が、かれは
> 東京に近い将来大地震の襲う恐れは全
> くないと告げ、それ以外のことについ
> ては人心の混乱を恐れて口をつぐんで
> いた。
というのですが、戦々恐々だったのですね。何か、原子力安全・保安院の皆さまみたいで、実に、お気の毒です。原子力安全・保安院を「原発推進活用」の経産省から独立させる組織いじりをしても、人心の混乱を恐れて不用意なことは言えない状況に変わりはないのであり、大した効果は期待できないと私は考えます。

玄海原発の危険性を評価するに当たっても、「現基準は満たしているから危ないというのは風評にすぎない」というのは、明らかな詭弁です。「現基準を満たしている」と主張できても、それで「原発事故が100%起こらない」ことにはならないからです。「リスクをゼロにするのは不可能なのでそれは求められない」(© 伊勢田哲治「『誇り高い技術者になろう』に関する『科学・社会・人間』誌上の討論」)ということで、「原発事故が100%起こらない」ことは誰も保証できません。「リスクは、これだけ小さい」と確率的に言えても、原発の場合は「製品の目標次第ではリスクと便益のトレードオフがありうる」(© 伊勢田哲治「『誇り高い技術者になろう』に関する『科学・社会・人間』誌上の討論」)に該当しない——
原発の場合、フクシマに見るように、消費者や市民にとって受け入れ不可能なリスクトレードオフしかない——と市民が考えるならば、玄海原発は、やはり止めるべきなのです


ついでに、「自分も自然の一部だって言う実感」(© 藤井先生)がある人は、何でも(強迫神経症みたいに)完璧にコントロールしようとは思わないでしょう。複雑系(← 人体というシステムを含む)に対して「カオス・コントロール」と言うのはドクター・エッグマン(← セガのゲームに出てくるマッド・サイエンティスト)だけにしてほしいところです。

(2011/07/06 付記)

おまけ:「《べし》は《できる》を含意する」(← 倫理学の基本テーゼ)を外して…

『過失はいつどこにあったか』

http://kipuka.blog70.fc2.com/blog-entry-809.html

から抜粋:

「どんなに密に観測しようとも、現在の火山学では噴火警報を一般の利用に適合するようには出せない。だから、2週間前に立てた予想が外れたからといって、そこに過失があったとは言えない。しかし法律は、それを出せと気象庁に課している。できないことを気象庁に課しているいまの法律が不適切なのである。いかに不適切な法律であろうとも、司法はそれに即した判断を下すことになっている。」

(2018年11月18日追記)


皆さまも、お大事に。




Viewing all articles
Browse latest Browse all 19012

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>